鎮疫祭(御心経会)
祭典日:2月13日 (2月12日~15日)
鎮疫祭は、かつて神宮境内に建立されていた、弥勒寺の守護神として奉斎された末社の八坂神社で斎行される祭典です。この祭典は「疫病災禍」を祓(はら)い鎮めるためのもので、前日の宵祭、当日の本殿祭に続き八坂神社前で祭典が行われます。その昔、夜中に執り行われ「般若心経」が唱えられていたため、今でも『御心経会』と呼ばれています。
2月12日の夕方から行われる宵祭では、忌火を灯す「火入の儀」が執り行われ、斎庭に用意された庭燎用の火炉に神火が灯されます。この火によって焼かれた餅を食べると、一年間無病息災になるといわれています。
当日13日は、上宮での「本殿祭」の後、「八坂神社祭」が斎行されます。八坂神社では、宮司の祝詞奏上に続き、「幣越神事(へいごししんじ)」が行われます。この行事は、榊の代わりに一丈四尺もの竹に五色をつけた「大幣(たいへい)」が、供奉員により八坂神社へ放り奉られます。「大幣を手に入れると1年間無病息災でいられる」と云われており、多くの参拝者が大幣を授かろうと賑わいます。
神事には、舞「振鉾(えんぶ)」、舞楽「陵王(りょうおう)」、また僧侶方による般若心経読経も行われます。
この神仏習合で奉仕される「鎮疫祭」は、貴重な祭礼として昭和50年に大分県選択無形民俗文化財に指定されました。
御神幸祭(夏越祭り)
祭典日:7月31日・8月1日・8月2日
「夏越大祭」「夏祭」「ごじんじ」等と呼ばれ多くの方々に親しまれていますが、正式には「宇佐神宮御神幸祭(ごしんこうさい)」と称します。古くは「御祓会(おはらいえ)」とも呼ばれ、人々の疫病を除き災厄を防ぐと共に、八幡総本宮として国家国民の安寧を祈願する意味合いがありました。
上宮での祭典の後、本殿より三所のご神体が三基の神輿(みこし)に乗り境内の頓宮(とんぐう)(御仮屋)まで御神幸になります。
神幸行列は、天狗のように赤く鼻高の猿田彦が道案内として先頭に立ち、鮮やかな色彩の装束をまとった「蝶」「鳥」「駒(馬)」の稚児が列を成します。続いて裃(かみしも)や直垂(ひたたれ)を着けた列奉行、太鼓・横笛・鉦を賑やかに奏でる道行囃子、三基の神輿、輿に乗った宮司と神職が従います。
神輿が頓宮に着くとご神体が仮殿に移され、その横を斎庭に設けられた祓所に三本の川御幣(昔は祓川の中に立てられていた)を立て、その前で「菅貫(すがぬき)神事」という解縄串(ときなわぐし)による古式の祓い神事が厳粛にとり行われ、国家安泰・五穀豊穣・万民息災などの祈念が込められます。
御神体と神輿は、頓宮で三日二夜を過ごされた後、再び行列を成して上宮御本殿へと御還幸されます。
御神幸祭期間中は、境内に特設舞台や屋台が設けられ多くの参拝者で賑わいます。
仲秋祭(放生会)
祭典日:10月体育の日、前日、前々日の3日間
奈良時代より明治13(1880)年まで「放生会」と呼ばれていましたが、以後仲秋祭と名称が変更となりました。
養老4(720)年、大隈・日向の隼人(はやと)の反乱を鎮圧するため、大和朝廷は八幡神へ祈請し、薦枕(こもまくら)を神験(みしるし)として神輿に奉じ、戦地である大隅・日向に赴きました。この時の輿が、日本で初めての神輿とされています。
鎮定のため同5年両国に行幸、3ヵ年にわたって抵抗する隼人を平定して、同7年ご還幸になられました。
このとき、百人もの隼人の首をもち帰って葬った所が、神宮より西約1キロの所にある「凶首塚」です。また、隼人の霊を祠(まつ)る百太夫殿(現在の「百体神社」)が造立されました。 さらに、神亀元年(724)には「隼人の霊を慰めるため放生会をすべし」との託宣があり、天平16年(744)八幡神は和間(わま)の浜に行幸され、鎮圧された隼人の霊を慰めるため、蜷(にな)や貝を海に放つ「放生会」の祭典がとり行われました。これが「放生会」の始まりです。
風除報賽祭
祭典日:10月20日~21日
毎年8月7日に斎行される「風除祭」では、田畑の安全と豊作を祈念しますが、10月20日の「風除報賽祭」は、五穀豊穣の祈念が成就したことを報賽する祭典です。神能、鉾(ほこ)立てなどの神事があります。
祭典の前日から、境内に風除報賽の意味で氏子が奉納した鉾(ほこ)を建てます。太綱を使った壮大なものです。