奈良の大仏は聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ)が行われました。
大仏を作るために使われた金属は銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンです。
聖武天皇は疫病や社会不安から国を鎮護するための国家的大事業として東大寺を建立していましたが、天皇が沢山の費用を使って仏教寺院を建立すれば、貴族からどんな反対の意見が出るかもしれません。そんな心配のある時に、宇佐の八幡神から「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率(ひき)い、必ず成し奉(たてまつ)る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)ることなくなさん」という協力の託宣が出されました。
八幡神は天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させるというのですから、聖武天皇にとって、これほど心強いことはありません。大仏に塗(ぬ)る金が不足すると金は必ず国内より出るという託宣を出し、やがて陸奥国から金が献上されてきました。
また、大仏鋳造直後の天平勝宝元(749)年12月に八幡大神とお供の宇佐宮の女禰宜(めねぎ)・大神杜女(おおがのもりめ)が大仏を拝するため、紫の輿(こし)に乗って転害門(てがいもん)をくぐりました。
紫の輿とは天皇が使用する高貴なものでした。転害門では大勢の僧侶、文武百官(もんぶひゃっかん)が出迎えました。東大寺では八幡神を迎え、聖武太上(しょうむだいじょう)天皇、考謙(こうけん)天皇、光明皇太后(こうみょうこうたいごう)の行幸のもと、僧侶5000人の読経(どきょう)、呉楽(くれがく)、五節舞(ごせちのまい)などの法要が賑々しく営まれました。
また、三年後の天平勝宝4(752)年に行われた東大寺大仏開眼法要について、『東大寺縁起(えんぎ)』には、次のように記されています。開眼法要のため聖武太上天皇・孝謙天皇が大仏殿に入御され、続いて八幡神も入御になりました。そのとき、「神明霊威」により内裏に「天下太平」の文字が出現しました。おめでたいということで、年号を天平勝宝から天平宝字に改元したといわれています。
大仏建立の協力の褒美(ほうび)として朝廷から八幡神へ封戸800戸・位田60町がおくられ、東大寺が完成すると東大寺を護(まも)る神として、寺の近くに手向山(たむけやま)八幡が分霊(ぶんれい)として祀られました。八幡神は奈良の人々に強力な印象を与え、国家神としての第一歩を踏み出したのでした。
※『神輿』は宝物館にてご鑑賞いただけます。